昭和45年〜昭和54年(再就職そして休職)

〔再就職とサークル活動〕                                                          
 季節は秋、旅行から帰り私は無性に働きたかった。といっても肉体労働はアルバイトをして経験し長続きしない思っていたので設計部署であるかと立川の職業安定所(今のハローワーク)に行き透明のプラスティックに入った求人表に目を通した。国立市谷保に機械設計事務所・三和技研()を探し出すのに30分とかからなかった。係りの職員に相談することなく私は電話をかけた後履歴書を持って面接を受けに行った。
私は蛇の目を辞めたいきさつから今日面接を受けるに至るまでのことを一気にしゃべってた。社長はコンパスと定規を持ってその場に挑んだが夢の話になるとテストはそっちのけで自分の夢を話し始めた。4歳年上でちょうど三男・朗と学部は違うが同じ高校の卒業生だった。山が好きで独身時代は近くの山を登っていたらしい。“宿舎は八ヶ岳を眺められるところに建て自然を求めてやって来る人達の憩いの場にしたい。”
私にとって願ってもない入社だった。図面を書くのが嫌いな私が設計事務所を選ぶことそのものが自分の気持ちを否定しているのだが未熟な技術とはいえ今までの経験が役に立てられた点では採用は当然と思いながらもいつかかなうかも知れない夢をもちながら仕事が出来るのかと思うと辛いけど頑張れるような気がしてきた。。そんな社長の下で働けることをラッキーと思った。
 仕事場は面接を受けた2階で6畳と2畳のふた間しかなく社長の他に女性が1名と男性の3名がドラフタ-に向かって図面を書いていた。その他に取引会社(日本製鋼所・府中)に2名出向してるという。足の踏み場もないような狭い作業場である。社長も一緒に図面を書いていた。日本製鋼所の建設機械、射出成型機の請負設計が主な仕事である。翌日から谷保の事務所に通勤が始まったが府中からサイクリング車を利用することにした。一週間ほど訓練を受けた後私は日本製鋼所設計課へ出向することになった。相変らず自転車通勤である。約半年ほど経った頃谷保の線路沿いに会社が60坪ほどの土地を買ってそこに平屋の木造事務所が建てられた。事務所移転である。社長から空いた2階の部屋に引っ越してこないかと勧められ私は家賃1万6千円で移り住むことになった。階下はお菓子屋で棟続きの部屋に社長のご両親が住んでいる。谷保駅から歩いて5,6分のところ、部屋の前は6メートル幅道路を挟んで目の前は駐車場だったが5年後にはスーパー忠実屋(後のダイエー)が出来て、また近くには買い物アーケードがあったり銭湯にも近いので住みやすい所である。結局私はこの部屋を休職、「斑尾高原」勤務期間も入れて9年住んでいた事になる。今思うと空調機もないこの部屋でよく我慢できたと思う。さて私が谷保に引っ越してきたことで生活ライフも変わってきた。通勤時の自転車を利用は相変らずだったが出向先での仕事が終わるといったん部屋に戻り一休みした後歩いて事務所へ出勤する。夕食時に1,2時間休んだ後再び事務所で仕事を続ける。終わるのが10時のときもあれば午前0時のときもある。残業は月に100時間を越すのはざらだった。
 勤め始めて翌4月立川のサークル(G多摩)の10代目会長に推され会合や行事の参加で残業時間が減った時もあったが一年間という期限付きの役目であったし自分なりに努力し会の運営に携わってきた。副会長のゴエモンこと石川さんトマトこと和智さん、企画部長のシルクこと小室さん、それと渉外のマンボこと斎藤さんらの活躍ぶりが印象に残っている。会には40人近い会員がいたが社会人が9割方占め、勤務先もバラバラで、趣味である“旅”“自然”“ユースホステル”を共有している仲間達である。ちょうど10周年ということもあって小金井市にある「浴恩館YH」で(財)東京都ユースホステル協会上野副会長、八王子のサークル「桑の実グループ」等々100人近い参加者を募って盛大に記念行事を挙行したことは忘れられない思い出だ。それ以外に八王子から御殿場まで100キロ、八王子から鎌北湖までの50キロ徒歩ラリー、御岳山清掃ハイク、三つ峠登山等々野外活動も活発だったが毎月の会報づくり、集まる会もいつもワイワイガヤガヤ楽しいひとときだった。また個人的な趣味でのサイクリングも別のグループをつくって活動していた。こちらの方は安原さん、倉本さん、岡田さん(蛇の目)大森さん、佐藤君、沢田君(日本製鋼所)ミスタースクワイヤ、佐々木さん(個人)を中心に時々「G多摩」の有志を誘いながら関東近県の峠越えサイクリングを8ミリのカメラに収めながら走りまくった。仕事の都合もあってG多摩は次期会長シルクこと小室さんにバトンタッチし翌3月に退会したがサイクリングの方はその後10年位は活動を続け脱サラを始めた年に自然消滅し、気がついたらいつのまにか調布の神金自転車の「ペガサスサイクリングクラブ」と融合していた。
 一方会社の方は社長が設計のスペシャリストを何人か外部から引き抜き同時に石川播磨重工業、新日鉄等大型石油プラント設計の仕事を受注し継続的なこれらの仕事は絶えることなく事務所に戻ると担当者の指示に従いただ黙々と図面を書いていた。たった数人だった社員から4年後には20人に増えていた。仕事場も近所に家を借りたり事務所を借りて事業が拡大されていった。その頃になると社長は図面に携わらなくなり経理事務を専任でするようになっていた。そしてもう一つの会社三和商事()の運営を始めた。いずれは商事部門で自分達の夢を実現させたいと思っていたようである。しかし社長の部屋から聞こえるラジオの内容は株の動向で売り買いを頻繁に行なっていたようだ。社長から少しずつ気持ちが離れ始めたのもそんな頃からだったかもしれない。業績の方は順調だったがだんだん社長から以前のような親近感から程遠くなり事業家としての仲間入りをしたような錯覚に陥り金融関係、周囲に対しても天狗になり始めた。部下への思いやり、親兄弟に対する言動が身近にいると嫌でも見えるだけに気になっていた。もちろん私と面接時に話した夢の実現なんてこの3年の間、石和に保養所を設けたこと以外話題にも上らなかった。
毎日社長からは株で損したとか取り返したとか聞かされているうちに30歳を越えたある日私は先のことも考えぬまま辞意をもらした。その晩社長は私の部屋を訪ねてきた。私自身いつまでも図面を書いているつもりもなかったし社長が商事会社を株の売買でうつつを抜かしているのだったらこの辺が潮時かと思っただけで将来の展望は見えていなかった。ただ中国語の勉強はしたかったので社長との話しの中でそのことを告げた。結局社長も夢は捨てきれずいつか宿舎をつくって一緒にやっていきたいと胸中を話してくれた。社長からの提案で設計の仕事は辞めても三和グループに残っていて欲しいと慰留された。社長自身約束を果たさず私をこのまま辞めさせるのに良心がとがめたのかも知れない。どちらでもよかったので籍はそのままで無期限の休職にはいった。私は台湾行きを来年早々にと決めたが社長からこの機会に運転免許を取っておいたらとアドバイスを受け素直に東府中の自動車教習所へ通い始めたまではよかったが仮免の筆記試験で3度も落ちてしまい免許取得まで思いのほか時間がかかってしまった。部屋は社長の好意でそのまま借りることになりいよいよ語学を勉強するきっかけが訪れた。台湾一周自転車旅行以来すっかり台湾に魅せられ在職中にも一度だけ休暇をとって特にお世話になった人を訪ね手土産を渡したことがある。また折りも折り神金自転車の森田社長の口利きでサイクリング雑誌“サイクルスポーツ”に私の記事“人情味あふれる台湾お礼の旅”をグラビアで掲載してくれた。何冊か余計にもらい台湾の人達にプレゼントしたところ大層喜ばれた。また日本にある台湾観光協会発行の機関紙にも転載されていた。

'74.2&'75.12掲載雑誌

掲載内容 徒歩ラリー・G多摩

 
[お礼の旅]
 昭和48年9月休暇をもらって再び台湾を訪れた。3年前自転車旅行の際、限られてはいたがお世話になった人達へ心尽くしの手土産を携えて各地を回った。日本語ならまだしも英語での対応だけの若い人に対して言葉の壁はなかなか乗り越えることは難しい。ただ私は多少蓄えも出来,心情的にお礼行脚の旅をしないではいられなかった。しかし3年間の間にはあの衝撃的な日台断交という悲しい出来事があったが台湾に滞在中、私の心配は吹き飛んでしまい何一つ不快なことはなかった。特に印象に残ったのは「羅東」の簡太郎さんの所へ尋ねた時、彼のために友人に作ってもらった浴衣をプレゼントしたら彼の喜びようは半端ではなかった。反対に彼は最新の台湾製サイクリング車をプレゼントしてくれた。いくら何でも持ち帰るわけにはいかずその代わり2日間借りて前回輪跡を残せなかった「蘇花公路」を走らせてもらうことにした。不要の荷物は全て久栄貨運花蓮営業所止めにして翌日身軽な格好で出発した。途中「和平」で一泊して2日目に無事到着した。「新城」の陳さんにも再会できた。そして営業所の劉さんにも・・・皆変わっていなかった。名残は尽きなかったけれど限られた滞在日数なので鉄道を利用して更に南下し「台東」の歐さんの所へ行った。今晩「台東」に泊まって翌日「台北」に戻るつもりでいた。ところが歐さんがもう一泊してくれと言う。「台東」から船で「緑島」へ行こうと誘ってくれた。前回「蘭嶼」に住むおじさんの話を思い出し心が揺れた。“「緑島」なら日帰りできるから”の一言で私も決めた。
翌朝小さな船に揺られて島へ向かったまではよかったが海が荒れている。船酔いが始まった。来るんじゃなかったと思ってももう遅い,じっと耐えるしかなかった。
島に上陸しても身体が揺れっぱなし。島内は取り立ててみるものはなかったが刑務所がいくつかあって重罪人が収監されている所だそうだ。刑務所の前を通った時、銃を持った兵隊?に近寄り銃を見せてもらった。同行の歐さんの話によると“二八銃(にっぱちじゅう)”といって第二次大戦中に使用されたものだそうだ。
さて天気の方は穏やかだったが台風が近づいているそうで海が荒れて今日は出航出来ないという。情報は歐さんを通してでないと伝わってこないのでなるようにしかならない。今晩は木賃宿のような粗末な造りの旅社に一泊するしか方法はなかった。翌朝船は何とか出航することが決まりやれやれと思ったが海の荒れようというか船の揺れようは沈没するのではないかと思うほどひどかった。客の中には床に転げまわり身体をぶつけながら身のやり場のないほど苦しんでいた。やっとの思いで「台東」に着いたときは助かった!という思いでいっぱいだった。しかしその晩から風雨が強くなり始め旅社で寝ていても明日が気になっていた。心配していたことが本当に起きてしまった。あくる日も風雨はますます強くなり外へ出られない状態で鉄道は勿論のこと飛行機もバスもストップつまり交通手段が途絶えてしまった。後に“尼那台風(ニーナたいふう)”と命名された、この台風の過ぎ去った爪跡は無残にも橋は壊れ道路はあちこちで寸断され、水かさの増した川で取り残された部落民の救出が思うように行かず川岸でたくさんの野次馬に混じって私も傍観していた。夜が明けると海へ続く道路は牛車、大八車、トラクター、自転車等々荷台にはたくさんの流木を拾い集め家路を急ぐ人又海辺に向かう人でごった返していた。私は交通手段を失い市内で4日間も缶詰め状態で帰国予定日も迫ってくるしだんだん焦り始めてきた。 
その時運がいいことに県議会議員の洪さん(大裕糖業常務)と知り合い、翌日空港が再開されたとき「台北」行きの一番機に乗ることが出来た。長蛇の列をつくっていた利用客を尻目に権力者の力は強い。カウンター越しの職員に二言三言話してくれてチケットはすぐ手に入った。
無事「台北」に戻って来れたものの予定していた西側の「屏東」「高雄」「台南」「嘉義」「台中」・・・・・・方面へ行く時間がなくなってしまった。あの時これこれをしなかったならとかどこどこへ行かなかったならと今更悔いても仕方がない、今回のような自然災害の前で無力感を思い知らされた。


楊さん一家・烏来

左より游さん、林さん、簡さん

簡さんと・羅東

      蘇花公路

トンネル・蘇花公路

トンネル・蘇花公路

アミ族・蘇花公路
断崖・蘇花公路      

蘇花公路・和平

新城村の陳さん・花蓮

歐さん兄弟と・台東
      台風一過・台東

 2回の訪台で痛感することはやはり言葉の壁である。私がはじめて台湾へ行き台北近郊の「陽明山」へ足慣らしのために自転車を走らせたときに知り合った4,5名の若者達が今回は私より3歳年下の女性が加わって台北空港に迎えに来てくれた。その晩音楽会に誘ってくれ、神妙な気持ちでクラシックを拝聴した。 言葉が不自由で彼らと英語での会話がまどろっこしかった。機会があったら中国語の勉強をしてみたいと思ったのもこんなことがきっかけになったのかも知れない。     

〔海外生活・台湾編〕                                                 
 私の身分は現在休職中。昭和50年(1975年)3度目の訪台になる。今回は語学の習得の為にやって来た。
斎藤さんが大学卒業後台北の旅行社に勤務していたお蔭で彼を訪ねて空港から事務所へ直行した。47年(1972年)日中国交樹立と同時に中華民国台湾と断交状態にあったとはいえ民間の交流は盛んであった。当時の旅行社は日本人観光客が多くて好景気だったらしい。以前東京で斎藤さんと会ったとき数人の旅行社スタッフが一緒だったが台北の事務所で再び顔を合わせ親近感を持って迎えられた。部屋を借りるときも以前会社のスタッフだった同僚を紹介していただきその日から住み込むことになった。部屋代も1ヶ月日本円で1万5千円と格安でベッドと机があって4坪位の部屋である。マンションの2階にあり蘇さんというお宅(金門街)でリビングと浴室キッチンそして4部屋ある一室が私が借りた部屋。妹夫婦と姉の3人暮らし、兄さんは香港に住んでいてしばらく帰っていないという。兄さんは東京でも会ったことがあるがなかなかインテリな人である。一時旅行社に勤めていたが思想的な面で台湾当局からブラックリストに挙げられていてもう台湾には戻れないのではないかと親しい人が話してくれた。その後は何をしているかは教えてくれなかった。妹夫婦は日本語はまったくわからなかったが姉さんが日本語を多少話せたので同居人として不便はなかった。
学校は福州街にあって歩いて10数分のところにある。国語日報といって新聞、雑誌、教科書を発行している。傍ら外国人とか華僑に中国語(北京語)を教えている。翌日初めて国語日報を訪れた。2階の教員室へ足を踏み入れた途端緊張した。ちょうど授業中のためか職員の数はまばらだったが誰一人として私の日本語を解す人がいなかった。困った、どうしよう、このまま帰ろうか・・・・・・問いかけられてもチンプンカンプン。苦肉の策で筆談をしてみようとメモに漢字を書き並べてみた。らちがあかなかったが、ちょうど授業終了のベルが鳴って先生方が教員室に戻ってきた。先程の職員が日本人生徒を連れて入ってきた。“何かお困りでも・・・?”あぁよかった、日本語で通じる。“私はここで語学の勉強をしたい”旨を話した。日本人は流暢な中国語で通訳してくれた。こうして入学手続きは無事終了し翌日10時から12時のレッスン、週に月、水、金の3日通うことにした。ところで3人いた日本人は自ら身分を明かしいずれも新日鉄から語学の研修で派遣されていることを話してくれた。そして研修後は中国へ技術指導に行くという。
少人数のレッスン、教科書は日常会話集と小学生の国語教科書である。生徒はマレーシア、インドネシアの華僑、沖縄の医者を目指している喜瀬青年そして私の4人。教師は60歳くらいのやさしそうな女性。始めは日本語のひらがなにあたる注音記号の徹底教育、これが難しい。日本語の発音にない発声は聞く力が備わらないとちょっとしたイントネーション(抑揚)で意味もまったく違ってくることも知った。2時間目は日常会話の練習である。毎回復習の時間があってヒヤリングのテストがあった。ノートに注音記号を書いていくのだが半分も出来なかった。華僑の青年達は上達が早い。ご両親が日常会話を中国語で話しているので耳が肥えているからだろう。
彼らのペースで授業が進められると私は落伍してしまうと思い2ヶ月目からは授業料は少し高いがマンツーマン1対1の教室に替えてもらった。私は小型テープレコーダーを用意して部屋に戻ってからもずっと聞いて復習していた。しかしヒヤリングだけはいっこうに上達しなかった。
あっという間に2ヶ月が経ち私は観光ビザで入国したので一度帰って改めてビザを取って再入国しなければならなかった。そして数日後台湾に戻り再び国語日報語言中心(ランゲージセンター)で講習手続きをとり授業を再開。国語の教科書にそって読み書きをする方は注音記号を覚えた分たどたどしくも読むことは出来るのだが北京語独特の四声がなかなか難しい。書く方も教師の発音のまま注音記号をノートに書き込むテストは相変らず0点に近かった。会話の方は中国文の下に英語の訳もあり意味をある程度理解しながら口に出して発声し抑揚部分で間違っているとその都度指摘されていたお蔭で多少ではあるが進歩の跡が見られ嬉しかった。とにかく英語の時はやたらと文法から入って会話も習得できず苦い経験があったので今回中国語会話をマスターするににあたってはこだわりを捨て、会話が出来ること念頭においてレッスンに励んだ。
それと週3日の学習パターンは替えなかったが地方へ旅行に行ったり持参した自転車で市内や観光地に出かけたりした。現地の人の話す台湾語はとうとう理解出来ずじまいだったが北京語は着実に進歩しているように思う。現地では知り合いは大半日本語で会話することが多いので却って見知らぬ土地で覚えたての言葉を試すことは大切であった。                                                                         蘇さん宅には4ヶ月間お世話になった。金門街に繋がる羅斯福路でいつも行くパン屋さん、開業医の本多先生(戦前からお父さんが開業していた関係で後を継いでいる)それから簡易軽食店等々近所にも親しくさせてもらった方たちと離れがたかったが再来台した時、友人の紹介で忠孝東路3段のマンションの一角に住んでいる王太太に移り住むことになった。7階建ての1階で50数坪もある大きな部屋で広いリビングと10畳ほどの部屋に王太太が暮らし、後の4つの部屋を人に貸している。学生であったり、日本人であったり、間借り人は様々である。バストイレは2つずつありキッチンは共同、私が借りた部屋でもダブルベッドと机とタンスが備え付けてある。結局私はこの部屋を半年以上も借りることになったが未亡人の王太太はご主人を戦時中ボルネオで亡くされ以来再婚もせず一人息子(私より一つ年上)と暮らしていたが結婚され家を出たためちょうど一部屋空いていたのだ。王太太は今年確か80歳を越えたかと思うが3年前このマンションを売り払って故郷の「台中」へ転居された。私は今でも台湾のお母さんと言って慕っている。日本が好きで、日本人が好きで在台中私は何不自由なく生活が出来て本当に幸運だった。
学校へは相変らず月水金の午前10時から正午までの2時間のスタイルは変えなかった。余暇は勉学に時間を費やすことが多かったが、再び自転車を台湾に持ち込み付近をサイクリングしたり週末には鉄道を利用して長距離を走ったこともあった。その中で忘れられないのは花蓮と台中を結ぶ東西横貫公路を走破したことと台南と瑞穂を結ぶ南部横貫公路を入山許可証をもらって走ったこと。これら山岳地帯を走るにあたって宿舎の問題をクリアし又事故を未然に防ぐ為に日本の(財)日本サイクリング協会にあたる台湾での公的機関である中華民国自由者協会に挨拶に出かけた。そこで知り合った理事長の謝敬忠さんのお蔭で紹介状を書いてもらったことで彼が経営する功学社(ヤマハのオートバイ、楽器類の製造)の島内全域にわたる支店網及び販売店でのバックアップを得ることが出来た。在台中の私のサイクリングに関するトラブルは皆無だったが謝さんとは以降今日に至るまで交流を絶やしていない。現在90歳に近いご高齢にもかかわらず企業の先頭に立って陣頭指揮をとっておられる。在台中の思い出としてアメリカの青年が自転車で世界一周中、謝理事長の所に表敬訪問した際私も功学社社長室に呼ばれ3人で会見したことや、自宅に招かれ夜更けまで語ったこと、又私が台湾の日本語訳の地図を作って店の掲載広告の企画を相談したら、功学社社長名の直筆で推薦状を書いて下さり営業面で助けられたこと、桃園での自転車競技会の際社長の高級車で送迎してもらったこと、私がサイクリング中蘇澳でたまたま自転車協議会の親睦旅行中の謝さん一行と出会い宴会に参加させてもらったばかりか翌日の降雨で蘇花公路走破を止められバスで一緒に台北に戻されたこと等々思い出は尽きない。
先程の日本語版地図についてもう少し記述しておかなければならない。それはこんな事を思いついたのも時間があったことと、日本人観光客が多かったので無料の観光パンフレットを配布出来たらと考え、スポンサー探しを観光客が利用する料理屋、お土産屋、散髪店等を対象に市内を歩いて営業して回った。肝心の地図については私がビザの書き換えで日本に帰った際、国内でも航空会社をスポンサーにして同様の思惑で既に地図を作っていた会社があることを知った。   電話でアポをとって湯島にある観光展望社を訪れた。嶋田社長とはこのとき初めてお会いしたがその後私の数々の節目でお世話になるとは思っても見なかった。まずは地図である。話し合いの結果嶋田さんは地図の原版をコピーして私に無償で貸してくれた。もし台湾で地図が発刊されたら利益の半分を渡すつもりでいたが結局諸経費で飛んでしまった。このことについて嶋田さんは何もいわなかったが心苦しい思いをした。
そして16社のスポンサーを見つけ原稿も書き印刷は当時斎藤さんの在籍していた慧海旅行社で知りあった沖縄出身の川畑さん(台湾観光の小雑誌編集者)が懇意にしていた萬華の印刷会社に依頼した。本来3000部は羽田及び台北の空港で配布するつもりだったが許可されずやむなく旅行社各社にお願いし第1回の仕事は終わった。全て自分で何から何までやらなければならず効率が悪くて2回目はやらずじまいだった。
さて語学の方は小学3年生の使用する国語の教科書での読み書きまで進みそして日常会話は毎週月曜は私が週末出かけた事柄が主な話題の中心となった。未熟ながらも会話ができる位にはなっていた。そして学校には半年で勝手に卒業することにしていったん帰国することにした。
荷物は自転車も含め必要最小限の荷物を持ち帰り他の荷物は大きな旅行カバン一つにまとめて王太太の物置に預けた。

〔海外生活・香港編〕        
 帰国後復職は考えていなかった。まだまだ遣り残している事があるようで真剣に風来坊をしていたかった。そこに志津男兄から電話が入りしばらく家に来ないかと誘われた。当時東京スポーツ新聞社の文化部長としても又人気TV番組の原作者としても名を馳せていた兄がどうして私を呼んだのかはわからないが素直に居候を決め込んだ。3食昼寝付の私はたまに小学生の次女久美子の遊び相手になる事ぐらいで兄の家では何もすることなくぶらぶらしていた。義姉も夫から言われたので断れないだろうに、恐らく迷惑ではなかっただろうか・・・。私は努めて明るく折り目正しい弟でいるよう振舞った。
2週間もいただろうか突然旅行社に勤める斎藤さんから電話がかかってきた。彼は台湾のオフィスから香港へ移り、同社の香港事務所でしばらく業務をしていた。
数ヶ月前に日本に戻り同社の東京事務所で営業活動していると言う。話があるというので新橋の事務所に出向いた。内容は香港事務所で仕事を手伝ってくれないかと言うことだった。香港事務所の日本人スタッフが斎藤さんをはじめ全員帰国した為、現在他社に業務委託しているとの事。だが経理の方が不透明なので再度業務を自社で行ないたい、というのが彼の意向だった。
昭和51年12月初旬斎藤さんに連れられ初めて香港の土を踏んだ。九龍尖沙咀の金邑里通りをちょっと奥に入った比較的環境も良さそうなマンションの2階に事務所がある。物々しい2重扉を開けると中は広いベランダ付の30坪ほどのオフィスで入口のすぐ左が6畳ほどのベッド付の仮眠室のようだ。         いくつかの机には数人のスタッフが座っていた。ひと通りの紹介があった後斎藤さんと現地の責任者東洋トラベルの林さん(台湾人)と業務のことで話していた。お互い日本語で話していたが内容は知るすべもない。彼らにしてみれば死活問題でもあるし恐らく込み入った話には違いない。数日間付近のオウガストムーンホテルに宿をとって事務所に通ったが私は斎藤さんの後ろをついて行く金魚の糞のような存在だった。
二人でいるときは仕事の内容を事細かに説明してくれる。要約すると香港での仕事は日本人観光客が香港啓徳空港に到着しそして空港を離れるまでの香港滞在中の一切の仕事を賄うものと判断すればよい。まずホテルの手配、ガイド、バス会社、レストランの手配そして日本文での香港滞在中の日程作成、マカオ旅行社との打合せ(ジェットフェリーの切符の手配)、土産店でのコミッションの集金業務などが主な仕事。
10日間の滞在で関連の所を回って説明を受け、林さんとの話し合いも終わったらしくひとまず帰国することになり年が明け1月21日単身で香港へ渡った。   同23日に東京本郷の観光客一行16名の香港マカオの3泊4日のツアーをまとめる為である。ツアーの初日が啓徳空港から直接マカオフェリーに向かいマカオで一泊して2,3と香港で宿泊し4日目に帰国するパターンである。斎藤さんからは関係各所の電話番号を控えた書類を手渡されていたので事務所から電話をかけ手配すれば済む事だった。ところが香港事務所に入ると異様な雰囲気に緊張が走った。
林さん以下東洋トラベルのスタッフにしてみれば私は招かざる日本人だ。前回の斎藤さんとの話し合いで決着がついていたものと思っていたが私の想像をはるかに越え複雑な金銭トラブルが絡んでいた。両者の言い分は明らかに食い違っていてどちらが正当なことを言ってるのか判断に苦しむ。ただ私は翌々日に控えたツアーのことがあったので早速業務に取り掛かった。バスの手配、マカオ行きのチケットの手配等で初めてまともに中国語(北京語)を口にした。香港での公用語は広東語だが有識者は北京語を話すことが出来るので支障は少なかった。ただ台湾と違って周囲で日本語を話す人が土産物店の従業員や台湾人のガイドくらいで日常生活の中で中国語を多用する機会が増えたおかげで上達したかと思う。
さて私は滞在中事務所脇の仮眠室で生活することになりひと通りの業務を終えホッとしていたところ、その晩ドアのベルが鳴った。ドアロックを外す前に小さな覗き穴から訪問者を見ると林さんらとわかりドアを開けた。林さんの後ろに私より大柄の体格のがっしりした男が入ってきた。国籍まではわからなかったが流暢な日本語を話し仕事上のことで話があると切り出し業務の提携問題等の話に及んだ。私は詳しいいきさつまで知らなかったので一応斎藤さんからの依頼事項を遂行する目的でここにいること告げた。彼ら数人は来る前に酒を飲んでいたのか全員赤ら顔で身体の大きいその男と私とのやり取りを静かに見守っていた。名を李と名乗った。私に落ち度はないものの斎藤さんの矢面に立たされた形で一方的にまくし立てられた。林さんは社内のテレックスで東京事務所に打電している。恐らく契約不履行の件を伝えているらしい。李と名乗るその男から暴力こそ加えられなかったが何をされるかわからない恐怖感は常に付きまとっていた。その場で私はパスポートと明後日に使うツアー費を取り上げられた。
林さんは知人の李と名乗るその男に応援してもらったつもりでいるのだろうが私がその場でおとなしく云われた通りに従ったことで外へ行こうと誘われ近所の中国料理店へ入った。奥のテーブルに陣取りそこでされたことは屈辱以外何もない“土下座”であった。何故林さん達にこんな格好で謝らなければならないのか承服できなかったがこのときはそうしなければ収まらなかったかも知れない。結果的に明後日からのツアーについて観光客がマカオから帰ったその時点から東洋トラベルで業務を遂行することになった。何も知らずにツアーに参加するお客さんに対してとりあえず最悪の事態だけは免れた。                         同じ事務所内で林さん以下東洋トラベルのスタッフといがみ合っている事は決して良いとはいえないが私は一刻も早く帰国したかったがパスポートを取り上げられたままでは身動きが出来ない。東京事務所からも何の答えもない。そこで私は考えに考えた挙句一考を思いついた。それは実父の危篤偽電報を日本から打ってもらいそれを口実にパスポートを返してもらうことだった。この策略は見事に的中した。昼間李と名乗るその男がやって来て却って同情してパスポートを返してくれた。 素面の彼は信じられないくらいまともだった。彼の名前は忘れたが正真正銘の日本人で香港女性と結婚して当地で警察学校で柔道を教えているという。見知らぬ土地で最初に出くわした不愉快な出来事は忘れることは出来ないがその後香港往来を繰り返す毎に親近感を持ち始め林さんともまたスタッフとも普通に付き合えるようになったのは大きな収穫だった。
こうして3月6日に日本に戻り東京事務所で斎藤さんと香港での出来事を話し早急に善後策がとれる様お願いし4月に香港へ行くときは再度斎藤さんに同行をしてもらって誤解点をクリアできるよう話し合ってもらった。
林さんの人柄はインテリタイプでまじめな方、理由はわからないが噂では二度ほど投獄されたらしい。人に恨みを買う性格ではないしむしろ温厚だが、ただ依存心が強くて胸中を明かさず、本当は何を考えているかわからない。前回私が李さんとやらに脅された時も林さんは斎藤さんへの面当て以外に何もなかった。    斎藤さんは私を香港に残して2泊しただけで帰国したがその後は平穏な日々が続いた。それというのも私の相棒に香港人の青年、馬さん通称ピーターと名乗るスタッフを加入させてくれたおかげで私も何かと彼と相談することが多く精神的にも大分楽になった。彼との会話はほとんど北京語だったが大きな支障はなかった。その後林さんたちは事務所を離れることになり本格的に旅行業に従事できたが3週間に2回位の割でツアーそれも2人だけのときもあり小グループの時もありでそれ程忙しいことはなかった。暇な時は手紙を書いたり街をぶらぶら散歩したりそれなりに香港生活を満喫していた。台湾と違うところ香港は世界各国の人種が集まっているせいか奇抜な服装や格好していても干渉されない、勿論隣人に誰が住んでいるかもわからない、まったく関心をもたれないのである。自分に関係ないことに対してまったく無関心といっていい。気楽な環境とでも云ったらよいのだろうか。

 4月に入って三和の宮武社長から一通の封書が届いた。内容は長野県斑尾高原に700坪の土地を購入したこと、そこでペンションを建設したいとのこと。
文面から社長の熱い熱い心情が伝わってきた。ペンションという名を初めて知ったけどユースホステルをもっと大人感覚でとらえ、飲酒はだめだの、消灯時間は守れとか原則セルフサービスとか例え家族でも男女別々の部屋でくつろぐだの・・・そんな規約はなく、民宿を洋風化したような温もりを感じさせるようなイメージを抱いた。私は正にこれだと思った。斑尾高原には行ったことがなかったが志賀高原に近いというので何となく雰囲気がつかめる。
休職して約1年半もの間勝手な事をしてきたが社長が忘れずに私に誘いの手を差し伸べてくれたことに感謝した。それと不思議と蛇の目時代に世話になった上司の顔を思い浮かべながら自分の夢がかなえられることで一つの区切りが出来る思いがした。
まずは実際のペンションなる所へ行って見たくなった。5月初め香港での仕事が落ち着いて次のツアー客が来るまでの間帰国し久しぶりに三和技研の事務所に行き社長の話を聞いた。設計部署のスタッフも20数人に膨れ上がり業績の方も順調にいっているらしい。社長の口調にも自信に満ち溢れていた。日本の景気もオイルショックから立ち直りディスカバ−ジャパン(日本発見)とかで旅行ブームに入っていた。そんな流行の中で脱サラ組や第2の人生を空気のきれいな自然の中で庶民的で尚且つデラックスな欧風感覚でリゾート気分を味わえる施設の経営に携わることが一つの社会現象になるのではないかといった勢いを感じた。社長の好意で三和技研の最古参の奥村さんの運転で現場の斑尾高原へ行かせてもらった。途中長野県原村に寄ってペンションに初めて泊まることが出来た。 定員20数人のこじんまりしたペンションがたくさん建ち並んでいた。建物にそれぞれ個性が感じられ1軒1軒入ってみたい気分にさせられる。ユースホステルと比べてはいけないゴージャスな雰囲気と食事それでいて家族的な暖かいふれあいが気に入った。料金も2食付きで一人1万円をきる価格帯も嬉しい。         ただこれから我々が経営しようとするペンションは企業として運営していくので果たして集客とか採算上問題ないのだろうか不安は残った。翌日目的の斑尾高原千曲台に到着。近所にはちらほらペンションが建っていた。竹内ペンション、北原ペンション、ペンションとも、村山ペンション等々。建設予定地はフジオペンションとペンション美樹の間でまだ山林のままである。
東京に戻り社長室で再度話し合い香港から戻って職場に復帰することに決めた。

新橋の慧海旅行社に顔を出し香港事務所の今後の善後策を話し合うため斎藤さんと会った。現地の馬さんもお互い気心も知れあい仕事の方も徐々にではあるが理解してくれていたが肝心の日本語はもう少し時間が欲しかった。2週間後香港に行き馬さんともじっくり話し合い私は8月に帰国することにしてそれまでの間仕事を続けていく傍ら馬さんの日本語の教育に時間を割いた。
台湾でも王太太の家にいたとき同様に間借りしている学生とか中学校の先生やらに日本語を教えたことがあるのでその難しさを知っていたが進歩の度合いを見ることが出来て喜びも大きかった。
馬さんは安い給料でよく努力し働いてくれたと感謝している。せめて日本語会話を教えることで恩返しになるならたやすい御用だった。
香港を離れる数日前、東洋トラベルの林さんが事務所に見えて私に対して執った一連の行為を詫びてくれた。日を重ねていくうち私も相手の行為は正しいとは思わないが林さんの気持ちを察すればどうしようもない感情をどこかへぶつけたかったのだと思う。
これでよかったのかどうかわからないが私は香港で生活が出来たおかげで中国人の考え方も幾分わかったような気もするし、何よりも北京語を実践できたことで大変貴重なひとときだったと思う。