(更新/2001.9.16)
昭和52年〜昭和54年(ペンションの支配人)

〔職場復帰〕

昭和52年9月 三和に戻った。2年振りの復職である。設計部門の三和技研(株)は退職していたがサービス部門の(株)三和商事でのペンション経営は稼動するまでとりあえず仕事は社長付きで2,3ヶ月の間雑用だった。そのうちペンションの建設計画概要と人事が決まり内示を受けた。思いがけなかったのは社内最古参の奥村さんが支配人として赴任するとのことだった。性格的に適不適があるが私から見てどうしても合点がいかなかった。しかし社内で一人浮いた存在になっていた彼を社長は今までの労苦に報いる為にも男にしてあげたかったのかも知れない。そんなことも11月から1年間現地の大野ペンションに修行に出させたことで社長の意図がうかがえる。三和技研にヘッドハンティングで入社した岩崎さん(新日鉄関連の設計チーフ)、杉浦さん(石川島播磨重工業の設計チーフ)そして若手の台頭で番頭役の奥村さんとの衝突を避けたこと、又業績が順調だったことで彼の給料を払いながら1年間遊学させる余裕も会社にあったのだと思う。私へのあてつけかなとも思える程の社長の言動だったが私にとって周囲がどう見ようとも蛇の目を辞めたときに最もやりたかったサービス業の施設の運営が形はどうであれその仕事に携わることが出来ることで満足だった。
私は営業担当ということで旅行社、学校のクラブ関係、会社の職場等の訪問が主な仕事だった。勿論社長が財務運営のトップであることに変わりはない。人事が発令されてペンションのオープン予定の翌年12月までは三和技研の方から仕事をもらい再びドラフター(図面台)の前で三和技研のスタッフ達と机を並べて図面を書くことが多かった。

〔斑尾高原みすずペンション〕

昭和53年12月初旬、オープンと同時に最初のお客様が東京昭島市の啓明学園の中学生一行40数名で先生が引率して訪れた。積雪も期待したほど多くなく心配されていたが運良く翌日から降り始め何とか目的のスキーは楽しんでもらえることが出来た。
初めてのお客様それも団体とあって社長以下夫人も又三和技研のスタッフも何人かかりだされ奥村さんのリーダーシップの下ペンション経営は動き始めた。しかしその日から内部でのトラブルが発生した。社長夫人と奥村さんとの意見の食い違いからはじめからギクシャクした構図が出来てしまった。お客様を迎えて初めての夕食時、社長からペンション開設と来客1号となる学生達を前に自分が如何に苦労して今日を迎えることが出来たかを長々と話し出し支配人たる奥村さんの紹介はもとよりスタッフの面々をさておき自分の家族を紹介し始めた。中学生になる長男そして幼稚園の長女・・・一瞬首を傾げてしまった。最後に我々が紹介された。
あまりに個人プレイ過ぎる挨拶の内容にあれっと思ったがその後夫人の振る舞いと奥村さんの確執が徐々に表面化し全体のチームワークを乱していった。それでも第一陣のツアー客は無事見送ることが出来て社長と三和技研のスタッフが東京に戻った後ヘルパーと呼ばれる大学生の居候4人と夫人と私そして奥村さんが現場に残って次々来られるお客さんの応対をしていったが年末年始の第一回のピーク時を迎える前に奥さんと奥村さんが衝突してしまいもはや修復は困難となってしまった。奥村さんの身勝手な振る舞いと全体をまとめようとする配慮に欠けていたことは彼を知る者として忠告で直せるようなものではなかった。
結局一年の無意味だった修行はあまりに短期間の支配人としての失格という烙印を押されペンションはもとより 三和グループを去っていく結果になってしまった。
谷保にある事務所に呼ばれ社長室で緊急の役員会が開かれ社長は人選の誤りを反省することもなく会議は淡々と進められ結局私が急遽支配人を兼務することになり冬のシーズンを乗り切ることになった。調理の方は奥さんが仕切ることになり宮武社長の親戚も応援に来てくれてあの忙しい年末年始を無事乗り切ることが出来た。
営業面はシーズンに入る前までが勝負で都内のスキーツアーを組む旅行社への営業とシーズンに入ると斑尾高原事務センターから回されるツアー客で3月後半のシーズン中までの利用客はまずまずであった。

このシーズン社長夫人のお陰で厨房の方は切り抜けられたもののいつまでも滞在するわけにもいかず今後の人事について本社での会議の結果私は支配人として留任、宮武社長の実の弟・邦雄さんご夫妻の管理人としての赴任が決定した。邦雄さんご夫妻にお子さんがいなかったこと、身内であることが選ばれた理由と思うが今の仕事をを辞めて遠い長野の地に赴任することについては相当の決心を要したことと思う。お二人とは谷保に住んでいた頃からの知り合いでお互いに気心は知れていた。個人的には良い人選だったと内心ほっとした。
ご夫妻の作る料理は社長夫人に負けないくらいのメニュの豊富さと味が評判だった。又邦雄さんの温厚で且つ器用さと車の知識、運転技術は抜群だった。私が時折客の態度が悪いと怒鳴ってしまいサービス精神を失する時でも陰でお客様をしっかりとフォローしてくれたり、施設や車に不具合があるとオフのときにきちんと修理をしてくれて業者泣かせのテクニシャンだった。反面性格的に控えめなので自ら営業とか表面には出たがらないタイプで、そこの点は私が前面に立って動き回った。それなりに現場ではうまくやっていたと思う。
社長との意見の相違が表面化して修復は不可能と判断したときもご夫妻と相談したが結局昭和54年秋私が会社を辞め山を降りることになった。

一介のサラリーマンだった宮武社長が部下二人を伴い立ち上げた設計請負業の仕事は国内経済の発展とともに右肩上がりに成長していった。谷保駅近くに土地を買い設計事務所としての2階建て本社が完成した。仕事量が多くなって近くに貸家や貸事務所を借りて人も増えていった。そして念願のペンション経営もてがけるといった30代にして実業家としての道を順調に歩いていたかに思えた。少なくとも私が在職中、会社は益々発展し社長の言動に自信が満ち溢れていた。唯一気になっていたことは人の助言や提案を聞き入れなくなってきたこと。人を信用できなくなってきたことも孤立へ拍車をかけていった。会社は独立採算とはいえペンションへの投資が母体の設計部門へかなりの負担となってきたことは否定できない。休職前は社長に対してイエスマンだった私が復職後社長の言動の変化に一々矛盾を感じるようになってきてしまった。社長室で二人きりになると私が声高に意見を言ったり激論を交わすことも少なくなかった。ペンション経営は机上の計算通りにはいかない事を社長にもっとわかって欲しかった。

それから数年後邦夫ご夫妻も社長との意見が合わずペンション管理人を辞することになり以前住んでいた谷保に居を移した。みすずペンションは売りに出たがバブルが崩壊した後だけになかなか買い手がつかず数年間空き家状態だったが、2500万円という超破格値で現在のオーナーに引き渡されたことを後で聞かされた。
私は三和グループを去り翌年早々に居を中野区野方に移し商売を始めたが当初は販売実績もなく最初に頼った販路は斑尾高原であった。みすずペンションのお土産コーナーはもとより高原ホテルの売店、土産専門店の樹十巣が主たるお客様だった。