昭和55年〜平成12年(脱サラ20年)

脱サラの動機

今日までサラリーマン畑を歩いてきて、よもや自分が会社を興すなんてこと・・・そんな大胆な行動が通用するほど世間は甘くないことはわかっていたが自分にとってギリギリの選択であった。
特別に能力があるわけではないし財力もない。組織の中で真面目に仕事をしていれば収入も安定している。楽ではあるが、要らぬ気も使う。
ただ私のような人間は一人で行動した方が性に合うのだと思えてきた。一か八かやれるだけやってみようと思った。独身35歳の決断だ。

蛇の目ミシンを退職した後、長期の自転車旅行を通じて知らない世界をたくさん見てきた。組織の歯車から抜けるって勇気がいるものだとも思った。自分がしたいことを見つけたはずだったのに夢と現実のギャップに自分の見識のなさを恥じた。不器用で何もできないのに空想の世界に自分をおいてただ夢を見ていただけなのかも知れない。
熟慮の結果、前職に似たような職種に再びついてしまった。肉体労働に向かないということもこの一年の間短期間ではあったがアルバイトをしてみてよくわかった。
幸い転職先の社長は私の夢をよく理解してくれた。機械設計の仕事ではあるが夢はまるで違ったサービス業の職種をである。入社して毎日図面を書いていて自分らしからぬ4年の歳月を過ごし31歳を迎えた頃少し焦り始めた。社長は本当に施設をつくる気があるのだろうか。
漠然とだが将来の生活設計も考えてみた。このまま流されて夢は夢で終わってしまうのではないか。不完全燃焼のまま自分を社長に夢を託したのは間違いではないかと思ったとき私は意を決して辞表を提出した。

その晩社長が部屋(社長の御両親の住まいの2階を間借りしていた)にやってきて長い時間話し合いの場をもった。
5年前の面接時に社長が話してくれた旅人を迎え入れる宿舎(後のペンション経営)構想をまだ実現していないことへの後ろめたさの様なものもあってか社長はすんなりと私の退職を受け入れてくれなかった。
私も辞めてすぐ次の職を探すつもりもなかったので話し合いの結果、社長の提案に同意して休職という形で落ち着いた。
休職期間中は無給だが自分のしたいことをしようと思った。まず車の免許の取得そして台湾で中国語を学ぶこと。

結果的に短期間ではあるが台湾で語学を勉強したことが今日の脱サラに大きな影響を及ぼしたといえる。
自転車で台湾を旅行した時に同年代の現地の人たちと自由に話ができないもどかしさからこの機会に話せるようなりたいと思った。

休職中、台湾そして香港で生活をして現地の友人もできた。仕事を離れて2年目だったか社長から一通の手紙をいただいた。
長野の斑尾高原にペンション用地を購入したことと帰国即ち復職の意思を問われた。
その時不思議と蛇の目時代の上司の顔が浮かんできた。上司があんなに熱心に引き止めてくれたのにも関わらず勝手な振る舞いをして迷惑をかけてしまったことと何はともあれ自分の夢が実現できるかもしれないという嬉しさで帰国手続きをとった。
ペンションでの仕事は時間が不規則だったがシーズン中は本当に楽しかった。不慣れながらもすぐに習得できた。これぞ私にとって天職だと思った。
しかしそんな適職の中で働いていても事あるごとに社長と意見の衝突が繰り返され嫌気がさして自ら身を引くことにした。

退職した結果、間借りしていた部屋を出なくてはならなくなったが幸い知人の紹介で都内のマンションへ移転することになった。35歳の時である。
少ないが蓄えもあったので当分は切り崩しを覚悟して、なるべく早く収入の道を探さなければならない。
まず自己分析を始めた。
性格的に身勝手でわがまま、おまけに言いたい事を云ってしまう傾向がある。営業が大の苦手で出来ることなら表面に出たくないタイプ。
果たして商売向きだろうか、不安が残るがやるしかない。
@蛇の目時代にアイディアを買われ転属になったこと。発想はミーハーだがオリジナル商品を開発すれば営業しなくても相手から取引の依頼が来るかもしれない。A未熟だが中国語を話すことができる。B台湾、香港に現地の友達がいる。
この3点はとても重要なキーポイントであった。

三つの点を線で結べば何とかなるかもしれない。

会社登記と台湾パートナー

東京・中野区に転居して事務所と住まいを一緒にした。数日後会社の登記申請をするため司法書士合同事務所に足を運んだ。
まだ何も業務らしいことをしていないのに登記するのは早すぎたかもしれない。無知がゆえに登記しなければ業務ができないと思い込んでいた。
数か月もの間業務といえば聞こえはいいが何度か訪台し友人の紹介で知り合った台湾人と接触し商品の供給つまり輸出業務をお願いした。彼は旅行業社の役員をしていたが斜陽化していく旅行業に見切りをつけ貿易業を始めて間もないころだった。
ファックスがまだ普及していなくて連絡の手段はすべて郵便と電話だった。国際電話料金が高かったことを覚えている。

先輩のアドバイスと最初のヒット商品

はじめに手掛けたオリジナル商品は絵ハガキが収められるサイズの木製フォトフレームと同サイズの世界の子供の水彩画と油絵20種だった。
絵葉書サイズのフォトフレームは観光地向けで、斑尾高原で働いていた当時に仲良くなった高原ホテル、お土産専門店、ペンション等におかせてもらった。子供の絵は都内のファンシーショップやインテリアショップに売り込んだ。当時は月1〜2回のペースで斑尾高原まで車で往復したり都内へは飛び込みで営業に回った。帰宅すると電話帳でめぼしい会社や店をピックアップして電話を掛けまくったりもした。売れ行きは芳しくなかった。
ある時電話帳で見つけたメタルキーホルダーのメーカーが足立区内にあることを知りアポをとり訪問した。せっかく斑尾高原まで営業に行くのだから名入れのオリジナルキーホルダーを作成してもらった。嵩張らないし利幅も良かったので助かった。 
しかし毎月の家賃、ガソリン代等の経費がかさみ通帳の数値は下降するばかりだった。                                             ちょうどそんなとき蛇の目時代一緒に卓球をしていた高橋S
さん(高校の先輩)から幼少時代の友人を紹介された。
福生にあるその会社を訪ねると販促用の小物商品を製作していた。フォトフレーム関連と作品を見せると「時代遅れ」との評価だった。帰り際その社長がたくさんの商品を格安で提供してくれた。それがきっかけで5年ほどお付き合いさせていただいた。その間大きな商取引もあった。忘れもしない1980年(昭和55年)は「ルービックキューブ」が大流行した年である。
知人から照会があるまで関心もなかったが台湾に工場があるからぜひ輸入してほしいとの依頼があった。
台北の展示会等で知り合ったメーカーや商社は強気だった。需要があれば供給元は次々とにわか工場が出来て粗悪品も多数発生した。
台湾の取引先にももちろん協力願い数社のメーカーを回って品質の検査や工場(といっても数人の家内工業ばかり)の生産工程を見せてもらった。
外観、操作性、衝撃試験等品質検査をもしやらなかったらとんでもない商品をつかまされることになる。ある輸入業者によると、届いた商品を手にとって操作をした途端にバラバラに分解してしまったケースもあった。
幸いクレームも少なく「ルービックキューブ」のお陰で販路を広げることができた。

1980年も終わりブームも下火になってくると台湾の小さな工場は次々と倒産し始めてきた。単価も少しずつ下がり始めてきたそんなとき福生の会社社長から大口の注文が舞い込んできた。その時数百万の仕入れ資金がなくて社長にその旨伝えると商品を引き取り次第すぐ支払うとの嬉しい返事が返ってきた。台湾の商社にも決済に数週間の猶予をもらうことで商談は成立した。
何の保証もないまま互いの口約束だけで交わした商取引ではあったが輸出業者と買い手側(福生の某会社社長)への信頼がもてなかったら出来なかっただろろう。
私にとって初めてのヒット商品がまさか偽物ルービックキューブだとは思ってもみなかった。

国内仕入れ

1980年代はファンシーブームで 小売店をのぞくと色とりどりの華やかな小物商品が陳列されている店が多かった。
私には無縁の世界に思われたが福生の会社の商品のお陰で新青梅街道沿いに1980.5月オープン(1999年廃業)したばかりの「ファンシーショップ・こぐま」(加園N社長・1994年没)との取引が始まりついでに直輸入の偽物ルービックキューブも売らせてもらった。
店に何度か足を運んでいるうちに店長やスタッフたちとも親しくなり他の商品の調達等依頼されるようになった。しかし国内の仕入れルートが分からない。
ファンシー業界の商品は正に夢のある商品そのもので購買欲をそそるものが多かったがまだ私にはこの業界の流通すら分かっていなかった。

商標権の問題で浅草橋の問屋が摘発されたとのニュースが飛び交った頃ルービックキューブのブームは急速に下火になっていった。。その間わずか1〜2年のことである。
オリジナルはリスクを伴う。仕入れ資金もさることながら、もし売れなかったら元も子もない。さて次なる売上のとれる商品をと考えているところに国内のギフトショーが池袋サンシャインで開催されるとの情報をつかんだ。
これが「東京インターナショナルギフト・ショー」である。年2回開催されるので1981年秋だからおそらく第5回ではなかったかと思う。
会場に入るや目の前がパッと明るくなった。大小の間仕切りの中で出展各社が自社商品を展示し商談をしている姿が眩しく映った。
ひと通り会場をまわって興味を引いた出展社は(株)エムケイエンタプライズ、(株)ワークルーム、垂興物産(株)、(株)フェニックス・・・。(2008年現在エムケイ以外は廃業、自己破産等で当時の会社はなくなった。)
展示会が終わった後それぞれ会社を訪問し関心のある商品をピックアップし仕入れることにした。
はじめは良かったが次から次へと新商品が誕生しその流行を追っかけていると在庫は膨れるばかりで、しかも同業の卸業者も同じ商品を扱っている場合
小売店によっては早く納品できるところから取るのは当たり前で業者として私のようにたまにしか店に顔を出さない者には不利だった。一人であれもこれもやっている私には不向きなことが分かった。

石原さんとの出会い

2,3年間は国内からファンシー商品を仕入れて必死で営業と納品を続けたが、利益分は流行が終わって売れなくなった商品に変わっただけで資金はますますひっ迫してきた。

毎月の支払がきつかった。数人の友人から借金したこともあったが二枚のキャッシュカードを利用して2カ月おきに返済しては改めて借りる方法でしばらくの間しのいだ。業績も良くないし個人の資産もない、ましてや独身である。金融機関で融資を受けたくても悪条件が揃い過ぎていた。

最初のオリジナル商品のフォトフレームはその後も影をひそめ物置の隅に積まれたままだったが次のオリジナルを企画する気にもなれなかった。

かといってせっかく台湾との仕入れルートをつくったばかりだったので絶つわけにもいかなかった。

そんなある日のこと私のところに同年輩の日本人が訪ねてきた。1980年初夏のことである。
石原孝信さん(小学館企業)といって現在台北で事業をなさっているそうだ。親交のあった
若菜正義さん(2002.12.11没)の紹介で来日を機に電話してくれた。印刷物の発行と小物商品の製造販売を手がけているとのこと。
さっそく持参した小物商品を見せてもらったところサテン生地で縫製した肩から下げる大人の手のひらサイズの小物入れ(ポシェット)と親指程のサイズのミニシューズに留ピンのついたブローチだった。チャイナ服の付属として似合いそうな一品である。
正直なところ商品に個性が強すぎて今の取引先では売れるような予感がしなかったが無下に断るわけにいかず食事がてら渋谷の東急ハンズへ出かけ今風の流行品を石原さんに見せたかった。

幸運にも私たちは渋谷駅からスペイン坂を通ってハンズに向かっていた。後ろを歩いていた石原さんが私を呼びとめた。
中国雑貨を売っているこじゃれたお店を見つけたのだ。「大中」という。(後にこれがきっかけで会社が大きく発展しようとはこのとき夢にも思わなかった。)
店は最近オープンしたばかりで店長の計らいで六本木店に毎月本社(大阪・吹田市)からバイヤーが来るのでその人と直接商談してほしい旨を伝えられた。
数日後石原さんは台湾へ帰国してしまったが六本木店へ何度も電話をかけてバイヤーとのアポを取りたかったのだが多忙を理由に数カ月が経過した。
結局店に足を運んだのは4ヶ月後の秋のことである。石原さんから預かっていたサンプルを店の人たちに見せたところ賛否両論だった。
店長の判断で委託で置いてもらえることになった。

大中との取引始まる
当初石原さんの商品に興味がなかったがオープンしたばかりの大中渋谷店に入ったのがきっかけで六本木店を紹介してもらい外人のお客さんが好んで買ってくれるという情報をいただいた。すぐに台湾にいる石原さんへ連絡をとり航空小包で郵送する方法で仕入れが始まった。

大中ダイエーの100%出資の中国雑貨の店で当時の中内功社長の趣味で始めた事業と聞いている。家具や生活雑貨は中国の関連企業・天津大栄が供給先だが我々のような国内の輸入業者からの仕入が増えてきたとも聞いていた。中国貿易公司志成丸和貿易サーティ志成販売共和商会が有名な商社だったがいずれも中国からの輸入品で台湾からは一社もなかったことが幸いして新店舗がオープンするごとに取扱品目と共に売上も徐々に増えていった。





                 (執筆中)2008.09.23

 

 

 

 

 

〔会社設立〕

〔設立20周年〕

 拝復 ご無沙汰いたしています。この度貴殿の会社の創業二十周年記念品を送付くださいまして有り難うございました。想えば、その昔貴殿が古い会社の限られた仕事からとびだして、自力で可能性を追求し、困難な事業の創立を行ったことはさぞかし大変なことであったと想像します。随分とご苦労も、又一面では喜びもあった事と考えます。会社を二十年続けることは大変なことです。
 この間世の中は、東西の国の問題の変化、バブルそしてその崩壊、香港、台中国問題、昨年の台湾南投地震、と問題の山積みで経済はすっかり変化してしまいました。もちろんこれらの情勢によってミシン会社は大変な危機に晒され、大きく変化しました。貴殿の場合はこの問題を予想したかのように自力で脱出、運命を切り開いてきたのでしょう。私が在職中貴殿に何も力になれなかった事残念に思います。貴殿は技術、開発、製造、営業、の多方面に亘る能力をもって問題の処理が出来るので成功の予想はありました。やはり最も大切な事は問題意識が人一倍強かったのでしょう。そして対人関係得意であったようにも考えます。
 これからも生易しいことではないと考えますが、貴殿の書中にもあるごとく、やはり何時も創業の初心を忘れず、努力する事。良い後輩を育てる事。又貴殿と家族、そして従業員の健康と幸せに力を注いで下さい。
                                               御礼まで                    敬具

                            ー原文のままー     00-3-28

 冒頭に一枚の葉書を書き写したこの差出人こそかつての蛇の目ミシン在職時代の上司である羽生進・開発室長(後の研究所長、常務取締役)である。 現場にいた時代に工場提案制度に応募したのがきっかけで高尾にある技術研究所に転属になり氏から設計のいろはから教えてくれた恩師でもある。
文中に書いてある私への評価は過大評価としても確かに今日こうして脱サラ後も元気よくやってきている事は嬉しい限りである。

 

 

 

                        (執筆中)

 

 


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